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COFFEE ROASTER " in "
自家焙煎珈琲店 国分寺(陽)&青梅(陰)
Since 2006
しきりにその人は言うのです。
「余計なことは何もしない」
「てきとーです」
と。
春の桜に人生を写し、
若鮎の菓子に初夏を感じ、
秋鳴く虫に涼と風情を、
雪降る夜を、しんしんと。
日本の、日本人のそういう感性が好きです。
そういう日本で生まれ育った私が愛したのは
珈琲という舶来の飲物でした。
お店を作る時、珈琲を創る時、
いつもそういう日本らしさを
自分なりの方法で織り込めないものだろうか?
と考えています。
たとえば、日本の料理の土台には欠かせない
コクや旨みや甘み。
科学的成分としては必ずしも珈琲の中のそれとは
完全に一致しないものでしょう。
でもそのようなニュアンスを
珈琲に感じることがあるのです。
私が頭がおかしいからでしょう。
とても珈琲の表現としては不適切である
出汁つゆの風味
味噌のような
納豆のような
穀物の香味酸味
山菜の渋み甘み
そういう旨みや甘みを
他人の珈琲にでさえ感じることがあります。
そしてそれを嫌とは思わず
そういうものと出逢えると
なんとなくしっくりとまったりとくるのです。
そしてそれが心地よいと気づいてからは
無理には、執拗には
スペシャルティーであることや
フルーツやジュースや紅茶のようであることを追うことも辞めました。
かつて私もそういうものを追いかけ、心酔していた時期がありました。
フェアトレードを叫ぶこともオーガニックを推すことも
辞めました。
コーヒーマイスターであることも辞めました。
そういうものを否定するのではありません。
むしろそれらの楽しみを知ることを怠ってはいけません。
すべての真面目に取り組まれた珈琲は、楽しく美味しいのです。
多くの作り手が美味しく楽しくその道を体現しているのであれば
私は私の道を行けば良いと気づいただけなのです。
無論当店の珈琲にもそういう企画にはめようとすれば
当てはまるものは沢山あります。
でも貴重なシングルオリジンであっても私にかかれば
残念ながら、ごちゃごちゃにブレンドの材料にされてしまっています。
皆の想ういい酸味の出る点を無視してオーバーローストさせることもあります。
私にとって珈琲とは、どこまでも趣向品です。
純粋な生命維持には不要のものです。
健康的一面はあったとしても健康食品とは捉えていません。
しかし私という心身を維持するには必要不可欠のものです。
この日本という風土も、私という心身を構成するに必要不可欠のものです。
こうして私は、出汁のような甘みや旨みやコクを
自分の作る珈琲に求めるようになっていきました。
そういうものに丁寧に。丁寧に。丁寧しか出来ない。
分かりにくく不器用な珈琲です。
これが、私の珈琲感。
ある時私は、和を下支えにしたしつらえながら
「カフェである」というお店と出逢いました。
和カフェとはまた違う、喫茶店のようでも
小料理屋のようでもありあます。
長年自分の日常に置いておきたくなる
居心地の良いお店です。
当店からもそう遠くはありません。
いつの間にか当店の珈琲も
扱ってくださるようになりました。
いつもそのお店に行くと何故か頼んでしまうメニューがありました。
「ポタージュスープ」
なのです。
その時々の旬の野菜を閉じ込めたようなスープ。
地味といえば、地味なメニューですが
滋味が溶け込んでいるのです。
あぁ~・・・この春らしいエグミというか渋み。
はぁ~・・・この夏の青さと甘み。
そしてしみじみとホッとするのです。
このしみじみは何だろう?野菜なのだろうか?
いやもっと奥にある何かだ・・・。
これは?出汁?
そう、このポタージュスープは洋のしつらえを纏いながら
その下支えにあるのは、まさに出汁の旨みなのです。
何故このお店に来るとこれを飲んでしまうのか
解かったような気がしました。
これは、私の珈琲感と近いのだと。
珈琲豆を煎る時、私は
てきとーに、感覚でハンドピックをします。
焙煎をするとき、必要以上にダンパーを動かしたり
火を調整したりすることもしません。
何もしない。素材に任せる。止めるタイミングは気を遣う。
そのカフェの、高倉健みたいに不器用なご主人は
黄金の出汁を作るところを
見せて下さった時、しきりにこう言うのです。
「余計なことは何もしない」
「てきとーです」
と。
珈琲もスープも塩梅がミソ。なのです。
珈琲 ≒ ポタージュ
だからやります。
コラボイベント
「スープの時間」
5月24日(日)25(月)26(火)
場所:ねじまき雲(陽)
14:00~22:00 LO21:30
詳細は追ってお知らせいたします。
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